2018/03/01

真夜中

自然に目を覚まし、暗闇を見つめる。
次第に天井がぼんやりと見えてきた。
―今、何時だ?
枕元にあるはずの携帯電話を手探りする。
あった。
サイドボタンを押すとくっきりと数字が光る。
2:17
―2時…か。
眠り直せばいい。
そう考えるが、目をつぶり布団で顔を覆っても頭が妙に冴えている。
―きっと昨夜の酒のせいだ。
酒を呑むとすぐに眠りに落ちる代わりに3時間もすれば目を覚ましてしまうのだ。
ベッドから出たのは眠るのを諦めたからではない。
棚から数時間前にしまったばかりのウイスキーをコップに適当に注ぐ。
液体が喉を焼く感触に引きずられて、一つの記憶が里香の胸によみがえった。

2月14日夜。
冷たい雨がビルの窓を叩き、眼下には街灯に照らされて傘の華がいくつも見えた。
車のライトが降り注ぐ水滴を一瞬だけ輝かせる。
「乃木さん?」
名前を呼ばれて、里香ははっと視線を戻した。
職場の後輩である芝田和哉がうかがうように自分を見返している。
「意味ありげな顔してましたけど、どうかしたんですか?」
「別に」
そう言ってからあまりにも素っ気ないかと思い直して
「雨が嫌いなだけ」
「確かに服も荷物も濡れますからね」
彼はそう言ってワイングラスを持ち上げた。
里香は芝田の挙動から目を離さずに考える。
今夜自分を誘った真意を。
何度か彼の仕事を手伝ったことはあったし、兼ねてから「何かお返しをしたい」とは言われていた。
けれど、予定を訊ねて店を決めるなど具体的な行動に移されたのは今回が初めてだった。
ここは高級レストランではないが、雰囲気の良い店だ。
芝田はしょっちゅうこの店に来ていると言い、「サラダが美味しいんですよ」と少し照れて付け加えた。
野菜がたっぷり入ったサラダはボリュームがあり、メイン料理も柔らかく煮込んだ鶏肉にマスタードがきいて美味しかった。
メニューを見ている時に芝田が「お酒、飲まれますか?」と遠慮がちに訊いてきた。
里香はすぐに察して「別にいいよ」と言ったのだが、「お好きだと聞いたので」とちょっとがっかりした様子を見せたので
「ワインは好き?」
「白ならわりと」
「じゃあグラスで一杯ずつでどう」
と提案したのだ。
彼女のグラスはとうに空だった。
絹のような舌触りとはこういうのを言うのだろうと思われるほど飲みやすかったのだが、名前は覚えられなかった。
「芝田くん、顔真っ赤ね」
そう言うと彼はさらに顔を赤くしながら
「ちゃんと歩けるので大丈夫ですよ」
「歓迎会のときも確かそう言ってた」
「覚えてるんですか」
芝田は目をぱっと見開いて言った。
「色白だからすぐわかるなーって思いながら、ちょっと心配になって声掛けたの」
「ちらちら見られてるなって思ってたらすっと隣に来てそれだけ訊いて戻っていきましたよね」
「だって静かに呑んでる人は気分悪くなってても気づいてもらえないでしょう。
それだったら危ないから」
「乃木さんは全然赤くなりませんよね、酔っ払いませんし」
「肌白くないからこういう照明の下だと目立たないだけ。
あと酔ってる自覚はあるよ」
それは本当だった。
もう一杯飲んだら猛烈な眠気が来るのはわかっている。
外の空気に触れれば酔いはすぐ醒めるということも。
「酔ってます?」
「酔ってる。芝田くんは?」
「うーん、たぶん酔ってるんでしょうね」
飲み干してから長い間持っていたグラスを、芝田はようやくテーブルに置いた。
テーブルクロスにグラスの影が落ちた。
「バスの時間、大丈夫ですか?」
「うん、まだあと1時間はあるから」
里香は腕時計を確かめながら答えた。
店からバス停までは徒歩5分もかからない。
考えたくないのはバスを降りてから家までの15分だった。
「朝よりは小降りになりましたね」
「え?」
「雨です」
今度は彼が窓の外を眺めていた。
里香も窓に目をやるが、外の景色ではなく窓に映る自分を見つめた。
「あの…」
彼がこちらを見ずに言う。
「うん」
里香も彼を見ずに答える。
しばしの沈黙の後、芝田はやっと里香を見て
「あの、僕が今日誘ったこと、疑ってますよね」
と言った。
「バレンタインだから?」
「そう、です……僕はそういうつもりじゃなくてですね。
OKいただいた時にちょっと嬉しかったのは事実ですけど、決してそういうつもりじゃなくて」
そこまで聞いた里香はちょっと意地悪い気持ちになって言った。
「決して私に特別な感情を抱いているわけではないですよと」
「え? えっと…」
それきり黙り込んでしまった。
店に新しく客が入ってきたが、他のテーブル席の客と同じく男女のペアだった。
芝田の顔を盗み見る。
肌の赤みはピークを越えたようだ。
「歩けるならそろそろ出ようか。
明日もあるしね」
「あ、はい」
勘定を済ませて店の外に出ると、彼が言った通り雨は少し弱くなっていた。
「雨宿りにはよかったのかもね。
近くにこんなお店があるの知らなかったから、教えてくれてありがとう」
「気に入っていただけたならよかったです」
「じゃあ…」
「バス停までお送りしますよ」
座っている間は忘れてしまうが、彼は細身だが背が高い。
来るまでの道すがらは気にも留めなかったのに、なぜか胸がキュッとなる。
これはアルコールの影響だろうか。
「乃木さんってすごいですよね」
少し先を行く彼が前を向いたまま声を発したので、里香は思わず「え?」と訊き返した。
「こう、凛としていて、でも人当たりはよくて。
フォローも上手いし、発言は的確だし」
―なんだか知らないけどめちゃくちゃ褒められてる?
「僕――」
その後の言葉は里香にはうまく聞き取れなかった。
たぶん独り言で「もっと頑張らないとなあ」とつぶやいたのだと思う。
けれど訊ねても「何でもありません」としか答えはなかった。
バスの座席について曇った窓を手で拭うと、彼が軽く会釈して見送ってくれるのが見えた。

それからも芝田とは同じ部署の仕事仲間であり、関係はそれ以上にも以下にもならなかった。
あるいは関係が変化する可能性はあったのかもしれない。
しかし、そうなる前に彼はいなくなってしまった。
里香はベッドに戻って来た。
再び携帯電話のサイドボタンを押す。
2/14 2:33
じきに睡魔が来るだろう。
―今朝のTODOリストでも見ておくか。
リストには取引先へのメール、プラン修正の予定に混じって、「花」とだけ書かれた項目がある。
―これ書いただけで思い出したのかな……眠い
里香は携帯電話を閉じて欠伸を一つすると眠りに落ちていった。



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以前書いた「夜更け」とは別の男女ですが、シリーズ化。
掛けた時間はおそらく4時間くらい。
回想しているのは真夜中ですが、場面のほとんどは真夜中とは言いづらいです。
でも、この回想が出てくるのは真夜中しか無いと思うし、深夜テンションだからこれを書けたとも思います。
最初の構想とは方向が違いましたが、何とかきれい目のオチを付けられたので満足です。

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