2017/03/29

「大丈夫だったですか」の記事

人と話す機会が増えるとブログに吐き出すネタが少なくなります、紅月です。

昔から社会のことにほとんど関心がないわたしが世間の情報を得る機会は、SmartNewsアプリとニコニコニュースからだけです。
両方で上位にあった記事がものすごく気になったので、今回はそれについてのお話です。



記事の出処は文春オンライン、ライターは楠木建。
ここで言及するのは恐れ多いほどの大手ですし、書き手も方面ではそこそこ以上には有名な方なのかもしれません。
開設当初はこの場であまり個々の意見や事象を追及するつもりはなかったのですが、コメントなどにわたしの意見と重なるものが見当たらなかったので、ここで公にすることにしました。
記事名は"「お味の方は大丈夫だったですか」街にあふれる嫌いな言葉"です。

筆者は該当記事で個人的に嫌いな言葉を複数挙げています。
具体的には「おにぎり」「汁(しる)」「大丈夫」「面倒くさい」の四つ。
前の二つは語感の問題で、後は汎用的な言葉だから嫌いとのこと。
こうした言語感覚はわたしにもよく理解できますし、物書きが言葉にこだわるのはむしろ至極真っ当なことだと思います。
しかし、実際に読んでいただければわかると思いますが、この記事は個人の好き嫌いをつらつらと述べただけにしか見えません。
汎用的な言葉を用いると「言葉の解像度が下がってしまう」ということが、筆者は「イヤ」だと言い、それが何かコミュニケーションに障害をもたらすなどと主張するわけではないのです。
しかも最後に「面倒くさい話をしたわけですが、大丈夫だったですか?」と意味のないジョークを飛ばしています。

何が言いたいか一言で表すと、"情報収集ツールに載るようなコラムを自分の日記にするな"です。
わたしは内容だけならそれなりに共感できますが、そんな人はかなり少数でしょうし、共感しても「うん、まあわかるけどそれで?」と言いたくなります。
共感できない人はそれこそ「面倒くさい」と一蹴するでしょう。
文章からして"異文化(他者)理解"を呼びかけたいふうにも見えませんし、変なこだわりにまつわる"面白可笑しい話"として読んでほしいわけでもないようです。
この筆者はいったい何をしたいのか。
見知らぬ人間の稚拙なポエムを読まされたような気分になります。

一応ここに書くことを踏まえて筆者について軽く調べてみると、競争戦略を専門とする大学教授で経営学者に区分される方らしいとわかりました。
「好き嫌いが大好き」と明言しており、著書名と文春オンラインに寄稿した過去記事からもそれがよく伝わってきます。
過去記事の一部を流し読みしましたが、少なくとも一つは紹介した記事に似て個人の好き嫌いに終始した話に見えました。
興味深かったのは「人は『良し悪し族』と『好き嫌い族』に分けられる」という話。
平たく言えば、何でも正しいか否かに当てはめようとする「良し悪し族」で、みんなちがってみんないいのが「好き嫌い族」ということだと思います。
もちろん筆者は「好き嫌い族」。
「こうあるべき」といった言い方は「良し悪し族」の典型的なスタイルなので、筆者に意見の主張を求めるのがそもそも間違いだったようです。
「解像度の高い言葉を使うようにするべきだ」と主張していれば、末尾のジョークもさぞ痛烈な皮肉になったでしょうに。

しかし、「これは個人の好き嫌いの問題だから」と言っていては、口頭でも文面でも発展性が無くなります。
好き嫌いを個人で感じたり考えたりするのは自由ですが、言葉という伝達ツールに乗せるからには、特にこの場合は公になる記事にするからには、何らかの付加が無ければ受け取る側も困惑します。
「わたしはりんごが好き。でもこれはわたしが好きってだけだから」と言われたら「あ、そう」としか言えません。
「わたしはりんごが好き。だから、あなたもりんごを好きになりなさい」なら(「良し悪し族」もこんな感じでしょうか)、あまりにも傲慢なので争いが起こるかもしれませんが、論争の中で互いを知る可能性もあります。
「あなたは何が好き?」という問いかけも対話を生みます。
最初に紹介した記事はこうした発展性に欠けていると思います。
かろうじて「言葉の解像度」云々と出ていた芽も自ら刈り取っているのです。
「個人の好き嫌い」は不特定多数が集まる場で予防線を張るには重宝しますが、立場がある人や物書きなどにははっきりと物申す姿勢を取ってもらいたいものです。

ちなみに記事の中で「汁」の項、「豚汁」と言いたくないので外で豚汁を頼むことがないという話がありますが、豚汁自体が嫌いなわけでもないのにここまで徹底する(読む限りわざわざ意識してという感じがする)とは、よくぞその価値観を他人に押しつけずに来れたものだと感心します。

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