GWと共に当面の役割が終わりました、そこで切なくなった紅月です。
今回はメンヘラ系の記事です、嫌でない方のみ続きをどうぞ。
もやもやとした感情にも種類があります。
怒りや苛立ち、寂しさや虚しさ、誰にも言えない喜びさえももやもやになります。
この間まで、直接的な腹立たしさがわたしの心を占めていましたが、その原因は今や取り除かれました。
その後に訪れたのは開放感ではなく、切なさでした。
この切なさも、わたしの中では種類がありますが、それを説明するのは難しい。
ですから、今の感情だけ少し書いておきます。
もやもやと曖昧で、何が切ないのかわからない切なさ。
高校生の頃までは郷愁に近いかもしれないと感じていた胸苦しさ。
地元の川、その傍を通る時、ふと心を襲った感覚。
または、中学から高校までずっと好きだった人を、距離が離れてしばらくしてから思い出すと必ず付いてきた感情。
以前なら満月を見上げればしばしば付き添ってくれた少しの希望。
すべてが同じ感情で、そして今抱いているのがまさにこれなのです。
いつの間にか、これは久々の感覚になってしまいました。
この瞬間が最高ではなくて、人恋しくて、でも独りでいたくて、この寂しさだけを友としてこの時が止まって欲しくて。
つまりは寂しいと思っていれば、その人も物も、ずっと美しいままに心に留まり続けるから、そう思うのです。
中学から高校まで好きだった人は、彼もわたしの気持ちは知っていましたし、両想いだった時期もあったようですが、交際はしませんでした。
高校は違ったので、それからは会うことはほとんど無く、だからこそわたしは彼をずっと好きだったのだと思います。
付き合えば幸せは増したかもしれませんが、そうならなかったおかげで彼は十年以上が経過した今も特別な存在として心の片隅に眩しく輝いているのです。
だから彼のことを思い出す時、わたしはいつまでも変わらず色褪せない寂しさを感じます。
逆にこの寂しさを感じる時、いつでも変わらない想いでよみがえる彼のことを、わたしは思い出します。
この感情は厄介で、ずっと感じていたくても少しでも状況が変わればすぐに立ち消えてしまい、似つかわしい行為もただ泣くことではなく、この気持ちを留めるために反芻し続けることなのです。
悲しみは泣くことでいくぶんスッキリとし、そうすることで新たな心の持ちように踏み切れますが、これは違います。
例えるなら、どこか懐かしい夢を見ながら、できればずっとこの夢の中にいて、夢の続きを見ていたいと願うようなものです。
その夢の感覚を覚えておきたくて夢を反芻することは、したことがある人も少なくないのではないでしょうか。
高校生の頃、わたしはよく好きだった人のことを思い出してこの感傷に浸っていました。
たいていは家族が傍にいて、正直邪魔でした。
山に登っていても美しい夕焼けを見ても「ああ、こんな景色をあの人と見られたらなあ」と思ったものです。
すでにそんな日はもう来ないと思っていました。
そして同時に、もしかしたら大人になってずっと経ってから、どこかでもう一度だけ逢えるという予感も持っていました。
つまりはその部分がこの感情の希望です。
地元は好きな街では無かったけれど、今だけ少し美しいと思うように、十年も二十年も経てばきっと懐かしい気持ちで見るのではないかという希望。
桜が散っても来年にはまた違う蕾が花開くのだという希望。
子供の心では、切なさの中に希望があるとは思ってもいませんでした。
でも、今ではきっと、希望があるからこそこの感情が胸を去って欲しくないと切に願ったのだろうと感じます。
こんな説明を書くために物事を深く考えることも、やはりこの感情を消し去るのに一役買うらしく、どこかに霧のように消えていってしまいました。
それでもまたふと降り立つこの切なさと共に、わたしは一生を過ごしていきたいと思ったりします。
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