2017/10/19

マイノリティの話

ごきげんよう、紅月です。
自転車や自動車の眩しすぎるライトを廃止して欲しいです。
一瞬視界が奪われて、「眩しい」以外にどちらに避けるかとか思考ができなくなる。
あれは本当に危ないと思います。

さて、今日の話題は見る人が見れば物議を醸しそうな話題です。
しかし、わたしは考えられる可能性を語っているのであり、まして俎上に載せる方々みなに当てはまる話ではないことをあらかじめ断っておきます。
今回の話はハゲ、デブ、オカマなど、蔑称とも愛称とも取れる呼称で呼ばれる人々のことです。



これらで呼ばれるような人々をマイノリティとは普通呼ばないかもしれませんが、最初その呼び方が社会から爪弾きするために使われたのは間違いないでしょう。
この記事ではこうした人々をもって"マイノリティ"と呼びます。

現在、マイノリティの呼称を逆手に取り、ネット上でのハンドルネームに用いる人や、それを持ち味とした芸人などが登場しています。
そして前面に出てくる人々もいるわけです。
それでも未だハゲもデブも、相手をけなす言葉として充分機能しています。

この状況はもしかすると、ユダヤ人に対する差別と似た部分があるかもしれません。
過激なことを言うと思われるかもしれませんが、例えばハゲであることをネタにした芸をする芸人が人気が出ているとします。
すると、その人は大衆から好かれると同時に反感も買うと思うのです。
「あいつはハゲだから金をもらえる」と。
ユダヤ人は金持ちが多いとよく言われます。
それがまた反感を呼んだのだとも。
この場合もそうである可能性があるとわたしは思います。
マイノリティがマイノリティであることを恥にしなくなったからと言って差別が無くなったことにはなりません。

上のマイノリティの話とは別ですが、人類を大別する言葉はたいてい社会適合者と不適合者、または強者と弱者を分けていると思います。
それはいつも適合者や強者の側から名付けられ定義されます。
わかりやすいところでは、黒人や女性は押しつけられた立場から社会的強者との平等を目指して運動をしてきました。
しかし、黒人であること、女性であることを肯定しての運動には限界があると思います。
なぜなら、その定義こそ強者たちのものだから。
区別を肯定した時点で、差異を肯定していることになります。
平等は差異と相容れません。
「みんなちがってみんないい」は平等ではありません。
本気で平等を目指すなら、女性は女性であってはならないのです。

あまり気分の良い話ではありませんでしたが、誰かの目に留まって思考するきっかけになれば幸いです。

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