2018/03/04

出会いというもの

ごきげんよう、紅月です。
「SOMA」の内容にすごく考えさせられる日々を過ごしています。

突然ですが、あなたは運命を信じますか?

訊いておいてですが、わたしは信じていません。
選び行動するのは人間その人であり、予定調和で決まった道など無いと思います。

しかし、必然の出会いは信じます。
人と人との出会い、何か作品との出会い。
人は必要なものと必要なときに出会うようにできているのです。



たとえば小説のあらすじもよく読まない内からぴんと来る場合があります。
”ぴんと来る”では語弊があるかもしれません。
”引っかかる”と言った方が適切でしょうか。
わたしのこうした直感はよく当たります。
読んでみればおもしろいとか感想を通り越して、その時の自分に光明を与えてくれるような作品である場合がほとんどです。

人との出会いもいくらかは同じで、わたしの一目惚れ(厳密には一目惚れではない程度の時間は必要)が多い原因もこの辺にあると思います。
好きになる相手はすぐにわかりますし、それ以外は違うと無意識に選別しているからこそ何かあっても踏ん切りがすぐにつくわけです。

わたしは友人関係については直感ははたらきませんが、面倒な相手がいる場合にはこの信念を応用してこう考えます。
「人は必要な人としか出会わない、必要な試練としか出会わない。
今降りかかる問題はわたしが今乗り越えられる問題だ」
加えて、相手が自分より下”この程度”に見える場合は「出会っているということはまだ”この程度”の問題を乗り越えられていないということ」と自戒します。
(決して相手を軽んじてよいとは思っていません、相手を低く見積もるなら自分のレベルが低いのだと考えるだけのことです)

こういう考えがなぜできたのか、何かきっかけとなる文章はあった気がしますが、今となっては思い出せません。
「なるようになる、なるようにしかならない」という思想が前身で、そのあとに啓発本か何かに影響されたのでしょう。
それでも、信じるに足る材料があったのは確かです。
実際にわたしがいま生活できているのはある人との出会いのおかげですし、読書録を見返してもその時に合ったものを読んだ跡が多く見受けられます。

ただ、一方でこういったことも考えられます。
わたしは以前引きこもりになったことがあるわけですが、そこから抜け出そうともがく時期に「引きこもりも必要なことだった」と信じることで自分を支えていた節がありました。
強く信じるようになったきっかけはそこだったのかもしれません。

閑話休題、「出会いは偶然にすぎない、上のは単なるこじつけだ」と思う人もいるでしょう。
それなら、求めているものがあるからこそ出会えると言えば伝わると思います。
生活が退屈なら自分に合った刺激を探そうと嗅覚が鋭くなるのです。
その嗅覚で見つけるのが出会いであると。

どちらの言い方でも実は同じこと。
道はあらかじめ決められているわけではなく、どんな形でも自分で見つけられるもの、見つけるもの、見つけているもの。
その一つの形が出会いなのです。

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